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初心者の小説には性格が反映される。京都造形芸術大学に文芸コース

昨日は、大学での論文研究の授業の授業について少し書きました。今日も引き続き授業の内容についてです。

京都造形芸術大学文芸コースでの卒業論文は、卒業制作といって、卒業を目指すならば文芸的な研究論文あるいは小説を書くというものです。

卒業を目指すならばと書きましたが、造形ではカルチャースクール的な考え方で、卒業を目指さない方も多くいらっしゃいます。卒業単位に達してしまったために、泣く泣く卒業をして、また入学をし直すという方もけっこう多いみたいです。

卒業を目指す場合は、卒業の前年に「論文研究」という授業を合格し、卒業年度には「卒業研究」とを受講しなければなりません。

両方ともスクーリングのある授業になります。今期は、その授業を受ける生徒は18名でした。

 

 

初心者の小説には性格が反映される。京都造形芸術大学に文芸コース

 

 

授業中の発見

授業の1週間前に、皆が書いた小説の草稿あるいは原稿の抜粋を全員に渡されます。もちろんその中に私の原稿も入っています。

私は恋愛小説にしましたが、そのジャンルはなんと私一人だけだったんです。隣に座っていた同期に、恋愛って普遍的なものだから、題材には一番しやすいはずなのに不思議じゃないか?と言ってみたら、彼女は、

「参加のほとんどが主婦だから、恋愛には遠ざかって居るからじゃない?見た感じ、既婚しながら恋愛もしちゃいそうなタイプ一人も居ないしむしろ主婦にとってはタブーなジャンルよ」

そう教えてくれた。

同期も主婦で、ロボットSF物を書いていました。

そうなんです。誰もが書くだろうと思ったジャンルなのに誰一人書かないという事で、なんだか書いた内容は、実際の恋愛を書いていると思われそうで、ハードルが、上がってしまいました。

仮に自分の経験談を小説にしない場合でも、リアリティーが出るように書かなくてはいけないから、どうやったって、多少の事実は利用しばければなりません。

そうそう!今日初めてしった事なのですが、「エッセイ」ってフィクションではなくて、事実を書く事なんですね。考えたこともなかったのですが、色々勉強になりました。

 

勉強になったこと

問題がある世界(アンチユートピア)を描くときは、相当数のスパイスを入れないと書くのは難しい。(問題がある世界の例:高齢化社会、介護など)

SFを書くときは特にリアリティーが必要。SFで現実の事ではないのに現実のようにリアリティーのある描写が必要ということ

一つの小説の中で、語り手を変えるのは、読者が分からなくなってしまうので、かなり難しい(通常は語り手は一人の人)

擬人化小説は難しい(吾輩は猫であるなど)

小説内で説明をし過ぎるとリアリティーがなくなる

読者に状況を理解させるために、その意味を持った言葉で表現しない。例えば「癒やされた」と一言でいうのではなく癒やされたというディテールを書く。

フリーターとかキャリア組とかも使わない、使う場合は、「世間で言うところのフリーターである」などの使い方をする

病名は書かない。(アスペや統合失調症)

自分の作品を自分でジャッジできるようになるぐらいに、自分の作品を客観的に見られるようにする

なるほどなーと思ったことを並べてみました。

 

未熟な小説には書き手の性格が反映される

この週末は18名分の小説もどきを拝見しました。もちろん私の原稿も「もどき」です。その中でものすごく感じたのが、未熟な小説は書き手の性格がそのまま反映されるということです。

どういう事かというと、合評のなかで、他者の原稿にあれこれ意見をしたり、聞いたりするわけですが(私はこういうときは聞くだけの人)

話をする機会は、自分の作品説明するときと他者の作品を批評やアドバイスをするときで、その発言でだいたいの性格が出てきます。

その発言と原稿を比べると、からっとしている人は、原稿の書き方もからっとしている。からから過ぎて内容が薄っぺら。

話していてもテンポの良い人は、原稿もテンポがいい。

何を言っているか分からない人は、原稿も何が言いたいんだかさっぱり分からないし、指定書式も間違っていて、めっちゃ読みにくくなっている。

面白いくらいに、原稿に性格が反映されているんです。

で、聞いていて、この人達は難しいだろうなーと思ったのは2パターンあって、一つは、もう話していても、とりとめなく、複雑、でもやたらと長々と話したがる。原稿についても、取り上げる題材もものすごく複雑で難しいものにする。聞いて感じた範囲なので実際は違うかも知れないが、原稿と実際に書いた人が一致した瞬間に、「あーこの人が書きそうだ」と思ったのです。

二つ目のパターンは、美しい話、自分を持ち上げすぎて、オチがない。単なる自慢話になっていて気持ちが悪いパターン。

これはもーかなり致命的だった。

書いているご本人は、実際の出来事をそのまんま書いたらしい。いわゆるエッセイになっているわけですが、書かれている何本かの内容のすべてが「美しい私の外見と美しい私の心」になってしまっているわけです。

その原稿説明を聞いている限り、自慢話を書いちゃっていることに全く気付いていない。全てにオチを付けているけれど、そのオチが美しすぎて、自慢話の格をさらに上げてしまう格好になっている。

んーなんか説明が難しいので、例えば文章にすると、

『私は、大学生活があと半年で終わろうとしているところで、5人の男性と恋もした。他の学校の生徒からも告白をされて、ラブレターも何枚もいただいた。

そんな中でお見合いをさせられて、強烈な求婚も受けたが断ったことで、嫌がらせを受けて、卒業前に大学に行けなくなってしまった。

私がもう学校に来られないことを伝えると、同じゼミの人たちが「もう会えなくなるのは悲しすぎる」と泣いてくれた。

でも大変な中でも、気がついたことがある。私が大切なのは本当の真実の愛』

これで問題なのが、書いてある文章と本人の認識に違いがあること。

ご本人は嫌がらせを受けて、学生生活もままならなくなるほど大変なことが起きた。そんな中でも本当に大切なことを知った。と言いたいらしいのです。

しかし、何回読んでも、「美しさのあまりモテ過ぎて、嫉妬で嫌がらせを受けたけれど、美しい心の私はそんな事はこれっぽっちも恨んでいません。」

となってしまっている。

それは単なる自慢話になっている。と言うことを認識していなさすぎで、誰も何もアドバイスを出来ない。だから、これはーもうたぶん、そのまま行っとけって感じなんだと思います。

 

まとめ

自分の文章が自慢になっていないか、嫌みになっていないかってこれは一番客観的にチェックしたいところです。

自慢話は自慢話だと認識をして書こう。そうすれば嫌みにならないオチを付けるはず。

小説は例えそれが事実であっても、小説にした時点で、所詮フィクションなんだから。

 

世の中の女性達のなかに、個々のパーツとしては美しくないんだけど、自分の見せ方を知っている人って結構いる。

自分の見せ方を知っている人は、なんとなく全体的には美しく見えるので、やっぱり結構おモテになるわけですが、それが嫌みになる人と、そうでない人の違いはなにかなーって考えると、客観的に自分のことを、どれだけ認識出来ているか?って事だと思うんです。

これを書き出すと長くなりそうなので、いつかblogで書きます。

 

あとがき☆☆☆

今朝も朝5時に飛び起きた。

今日のは完全に寝ぼけていて、起きる直前に学校の夢を見てました。それでゴッチャになってしまって、あれ?今日も学校か?と、飛び起きてしまった。

なんでかなーと考えたら、たぶん学校に行くと、新しい情報とか知識がたくさん入ってくるので、脳内整理がされているんだと思う。それで夢と現実がゴッチャになってしまうのかも?

 

 

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