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人間とは何か?

今日は文明塾(慶応主催のリーダーシッププログラム)のセッションで、東大病院の循環器内科の医師、稲葉俊郎さんの話を聞くことができた。

稲葉さんは、医師としてや医師同士ではおそらく、変わり者だと思われているだろう。

私が細かく説明をしてしまうと、稲葉さんの本来の考えと違うことを書いてしまいそうなので、印象的だったことのみを私視点で書きたい。

私自身も人間とは何か?といった自己探求の迷宮に、時々入り込んだりするわけだけど、そんな中、なんとなく行き着いた答えのようなものがある(現時点では)

どんな答えかというと、実は人間は人間という洋服を着ているだけで、本来は意識が、自分なのではないか?

意識は言葉を変えると、魂や命、思い、エネルギーなどの言葉に代えられるかもしれないと思っている。

実は稲葉さんもそんな風に人間というものを捉えているのではないか?と勝手に想像した。

例えば、自分の内側の影は、からだ(こころ)の身体言語に変換される、または他者(人間関係)に投影されることで認識されると言われていた。

自分に投影された場合は、病や症状として現れ、他者に投影された場合は、まさに人間関係などで表面的に現れる。

これは、私の解釈としては、投影された物事に対して、自分がどんな気持を使うかということを分かりやすくしてる状態なのではないかと思っている。

なぜ、そんなことが必要なのかは、本来人間は、自然と調和をしていた。まさに愛の状態だった。

しかし、何らかの原因があって、自然と調和できない状態ができてしまった。しかしそれは、肉体を持たなければ、調和できていないことに気づけなくなってしまったので、肉体を持つようになったのでは?

なんて、答えのない人間とはなにか?ってことを時々考えている。

ちなみに愛についても、稲葉さんは、現代の私たちが捉えている意味よりも、愛という言葉が日本に入ってきた時点では、人を大切にする、あるいは慈悲などと翻訳をされていたと言われていた。

他にも印象的だった話が、感化、共鳴、共振(自然を介する)という話だった。

人は本来、言葉を介さなくても、非言語のコミュニケーションをしている。

言葉はより精密なコミュニケーションをするために作ったが、いつの間にかウソをつくためのものになってしまったということだった。

確かに話を聞かなくても、だいたい相手の考えていることは想像が付く。

でも言葉でウソをつかれると、自分の思い込みや先入観だったかもしれないと思い直すことがある。

反対に言葉で聞いても、なにか納得いかないときがあるし。

だから、もしかしたらそんなときは、非言語の何かを受け取っているのかもしれない。

もちろん、私の言葉のウソも相手には伝わっているのだと思えば、やっぱりウソって付けないのか?

それとも人は、目に見えない自分よりも、目に見える態度や聞こえる言葉を優先してしているのだろうか。

もしかして、非言語のコミュニケーションの方を敏感に察知している人って意外に多いのではないか?なんて思った。

 

人間とは何か?

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